天城の渓谷から北に流れる、狩野川の本流本谷川の水をあつめて、大玄武岩の絶壁を地ひびき立てて落下する浄蓮の滝は、まさに伊豆第一の名瀑である。むかし、このあたりに浄蓮寺という古い寺があったというが、今は廃寺となって空しく地名にそれがのこっているぱかりである。むかしこの里にすむひとりの老人が、滝頭の山畑で麦の耕作をしていた。山畑は静かで人の声もきこえない。とどろとひびくは滝の音ばかり、心地よい初春の光が野山にふそぞく。老人はふと疲れをおぽえてクワをおいた。そして畑のすみに腰をおろして青い空をながめた。「ああ、ひぱりがさえずっているわい。」

老人は、ひとりごとをいいながら、うっとりと目をとじた。畑の土に投げ出したどろ足に、小虫のはいまわる気配に目をあげると、美しい大きな女郎蜘蛛が一匹、老人の足に太い糸を巻きつけて、そのまま去っていった。

「わしのどろ足を、木の枝とまちがえているらしいな」
老人はおもわず、くすりとわらった。そしてそのまましぱらくまどろんでしまったらしいが、気がついてみると女郎蜘蛛は、まだせっせと糸をかけては去って行き、またひきかえしては糸をひく。くもの糸はいくすじもよりあわせたように太くなっている。          老人はやおら立ちあがったが、くもの糸を切ってすてるもかわいそうな気がしたので、そっと足からはずしてそばの桑の木の株へ、くるくるとまきつけた。老人はクワをにぎってまた麦畑に立った。そのとき、あやしく大地がかすかにゆれたとおもうと、滝のひびきがいつもとはかわって、もの狂おしくとどろきたった。

「はてな?」

老人が異様に感じたとき、さっきの桑の木の株が、めりめりと音をたてて引きぬかれ、そのままおそろしい力で滝の方へ落ちていった。

「や、やっ、これは!」

あやしんで滝壷を見おろすと、気味わるい黒い水のうずが、真っ白い泡の歯をむきだして、あんぐりと口をひらいたように桑の根株をのみこんでいった。老人はおそろしさにクワをすてて畑から逃げ出した。

「こわいこった。たしかにあれは滝の主だった。うっかりしていたら、わしは…。やれやれ、桑の木のおかげでいのちびろいをした。」老人はそれっきりそこの畑には入らなかった。麦は黄色くみのったがそのまま草におおわれて、荒野の姿にかわってしまった。

「浄蓮の滝の主は美しい女郎蜘蛛だ。糸をまきつけられたら、それこそたいへん。のみこまれてしまうぞよ!」というので、それからこの滝に近よる里人はなかったという。

それからいく年も過ぎてからのことである。よその国からわたってきたひとりのキコリが、滝頭の大木を切っていた。滝壷の上にのびている枝をはらおうとしてふりあげたオノが、するりと手からぬけて、あっと思うまに深い滝壷に沈んでしまった。

「やれ、これはしまった」

キコリは舌うちをして黒くよどんだ滝壷を見おろした。オノはつかいならした秘蔵の品である。キコリはやおら着物をぬいで裸体になった。”いわな”を手づかみでとってくるほどの男だっから、水におそれはなかった。谷川のふちにとびこんだ。

「どぶん」と、滝壷の水が、音をたててゆれた。ふかいふかい滝壷である。キコリは黒い渦の底にもぐっていった。

「もし、もし」と、どこかでやさしく女の声がする。顔をあげると、大きな岩のかげから、若い美しい女が半身をあらわして片手にオノをにぎっている。

「これは、あなたの道具ですね、さあ、かえしてあげますよ。そのかわりに、ここで私の姿を見たことを、だれにも話してはなりません。かたく約束できますか?もしも誓いをやぶったら、そのときは、あなたの生命はもらいます」
キコリは、大きくうなずいて、美女の手からオノをうけとって、片手で必死に水をかいた。
それからどのくらいたったのだろう。キコリは片手にオノをにぎって川岸の岩に抱きついていた。キコリは、なにか夢からさめたように、しばしぽんやりとしていたが、やがて秘蔵のオノをにぎって、山をおりた。

「これはふしぎなこった。なにかいわれがあるにちがいない」

キコリは、そう思って、里の人に、それとなく聞いてみると、「あそこには、女郎蜘蛛が主になってすんでいるのさ」と、はじめてこの滝の怪異を知った。

「おまえさん、よその国からきた人だもんで、なにも知らなかのか。こわいところだぞえ」里の人たちは、口々に滝の主のおそろしいことを話してきかせた。キコリは、あの美しい女が女郎蜘蛛の化身だったのかと、思いだしたように身ぶるいしたが、そのことは誓いを守って口をつぐんだ。

キコリはそこを去って、ほかの山へうつっていった。いちど滝壷に落とした秘蔵のオノをみるたびに、胸の中には、あのときのおそろしさと、もうひとつべつの気持ちとが、もつれあってうかんでは消え、消えてはまたよみがえった。

「だれにもいうてはならぬ。これは、わたしだけが知っていることだ」

しかし、いうてはならぬといわれたことは話してみたくなる。見てはならぬものを見てしまった心のうずきにキコリは、なぜか人恋しさにさそわれて、里の居酒屋の、のれんをくぐった。いろりには、めらめらと火が燃えて、キコリなかまの四、五人が赤い顔をして酔いしれていた。いつか炉ばたでは、むかし話に花がさいて、居酒屋の主人も一緒になって、滝の主のおそろしさを語られた。キコリは酒をあおりながら、ひとりだまって聞いていたが、酒の酔いがまわるにつれて口もかるくなり、とうとうひとひざすすめて、「滝の主の女郎蜘蛛を見たという人があるかい?どうだ?ないだろうが!ところがこのおれだげは知っている。この目でしかと見たのだ。そりゃあ女だよ。それも若い美しいお姫様のような」と、キコリの話に一座は、どっと声をたてて笑った。

キコリは笑わなかった。
「これはほんとの話だ。だがおれは誓いをたてて、いままでだれにも話さなんだ。だが、おれはおそろしくなった。とうとう誓いを破ってしまったで…」

いろり火は、またぱっとほのおをあげた。キコリはまた酒をあおり、それから口もかるく滝の主の話をくりかえしてわめいた。

「酔うた。酔うた。ぐっと胸につかえていたかたまりがとろりととけたような気持ちに酔ったわい」

キコリは、ろぱたにそのまま横になって高いびきでぐっすり眠りにおちた。

キコリは、ふかい眠りに落ちた。そのままさめることのない、永遠の眠りに落ちていったのである。誓いをやぶった罰のてきめんなのに、山で働くキコリたちも、里の人たちも、またあらためて浄蓮の滝の主の怪異を、いまさらあらためておもいしらされた。

                    むかしむかしの話である。